1・アロマテラピーの歴史、およびチュニジアの香料商・ケミリー家の香りの歴史を理解する

 ● アロマテラピーの歴史
 アロマテラピーの歴史の旅は、現在アロマテラピーがもっとも盛んなヨーロッパの香りのルーツとなる、古代エジプトから始めましょう。さらに中世以降、ケミリー家のあるアラブ社会(ケミリー家は、南地中海の国チュニジアにあります。多くの人がイスラム教を信じていますが、戒律はかなりソフトで、お酒も飲めるおおらかな国柄です。)が、ヨーロッパに香りを伝える大切な役割を果たしました。そのことを踏まえて、以下のテキストを読んでみて下さい。さあ、始めましょう!

 ・古代社会
人間がいつごろ、どのようにして香りを利用するようになったのか、その正確なところはわかっていません。しかし、北イラク・シャダニールにある4万6千年前のネアンデルタール人の墓からは、死者を葬る際に花を敷き詰めた床の跡が発見されています。花の色や香りを愛する気持ちが、すでにこの頃の人類の中に芽生えており、死への旅立ちを彩るものとして葬儀の際に用いられたのかもしれません。

四大文明の一つ古代エジプトの社会では、香りのある植物や樹脂を、神への捧げ物として宗教儀式に用いたり、病気の治療に役立てていました。古代エジプトといえば、ミイラが有名ですが、そのミイラ製造には、没薬や肉桂といった香料が大量に使用されました。このとき使用していた香料は、今のアロマテラピーに使われるようなエッセンシャルオイルの形ではなく、香木や樹木の樹脂を燃やしたり、そのままの形で香りを嗅いだりして使用していたようです。特に、乳香や没薬といった樹木の樹脂が大変珍重され、人々の生活に欠かせないものとなっていたのです。
これらエジプト国内で使用される香料のほとんどが、南アラビアから輸入されたものだったと言われています。
南アラビアは、いまでこそ天然香料の産地としてはあまり知られていませんが、古代エジプトの時代には、乳香や没薬の生産地として、盛んに薫香貿易を行っていたようです。実際、遺跡発掘などにより、この地より様々な香炉が出土しているそうです。これらの香炉は、たいてい墓所から発見されているそうですが、史料によると南アラビアでは、家庭内の祭壇でも、薫香が行なわれていたそうです。また、アラビア産の香料は、当時たいへん高価なものだったようで、南アラビアや東アフリカの一部の国は、一国の富の相当な部分が、香料生産や貿易によってまかなわれていました。この富と香料を求め、紀元前1500年ごろには、エジプト第十八王朝のハトシェプスト女王が、香料の国プント〔現代のソマリヤ〕へ遠征隊を派遣したほどです。

古代ギリシャやローマでも、紀元前後の時代には、年間約3000トンもの乳香が、南アラビアから輸入されていました。このころのギリシャ・ローマでは、古代エジプトの影響を色濃く受け、南アラビアや中東の洗練された香り文化に憧れを抱いていました。ローマ人は香料を生み出すこれらの国々のことを、憧れをこめて「アラビア・フェリスク(幸多きアラビア)」と呼んだそうです。
この時代、香りを使ってローマ帝国の最高指揮官、カエサルやアントニウスを陥落させらのが、エジプトプトレマイオス朝最後の女王クレオパトラです。ローマ人の彼らにしてみれば、エジプトは異国情緒漂う香りの国。そのエジプトの最高位の女王が、芳しい香りとともにあらわれるのですから、その魅力にはまらないわけがなかったのでしょう。今の我々にとっては、ちょっと信じがたいような話ではありますが、それほど古代ギリシャ・ローマの人々にとって、香りの力というのは、抗いがたいものがあったのだと言えるでしょう。

さて、ここまで読んできてどうですか?アロマテラピーというと、ヨーロッパのもの、という意識が強いと思いますが、「香料」としての歴史を振り返ってみると、そのルーツはエジプトや南アラビアにあることが理解できたのではないでしょうか?
次からは、香りが古代世界からアラブ社会を経てヨーロッパへと繋がっていった歴史を見てみましょう。


 ・中世以降
四世紀に入ると、ローマ帝国ではキリスト教の勢力が強くなり、それとともに香りはあまり使用されなくなりました。偶像崇拝を禁止するキリスト教にとって、香りを天に届けるための薫香という行為は、偶像崇拝にあたるとされ、厳しく制限されてしまったのです。さらに、ローマ帝国の崩壊とともに、香りを楽しむための香炉などといった品物の多くが、姿を消してしまいました。ところが、人々の記憶の中に残った香りの印象はなかなか消しがたく、6世紀ごろからはキリスト教の中でも、聖人が芳香を発するというような思想が生まれ、教義の中に少しずつ取り入れられたそうです。
ヨーロッパではこのように、キリスト教の普及とともに、香りを楽しむ習慣が衰退していってしまいますが、アラブ世界では同じ7世紀ごろ、マホメットの出現により、イスラム教の布教が活発になります。ところが、イスラム教はキリスト教とは逆に、香りを良いものとして積極的に教義や宗教儀式の中に取り入れたため、イスラム教の布教とともに、香りの文化が広がっていったのです。当時イスラム教が栄えたのは、アラビア、アフリカ、そしてチュニジアに代表される地中海沿岸のいくつかの国々でした。もともと香料の生産国として栄えていたこれらの国に、香りを大切にするイスラム教が入り込んだため、アラブや北アフリカでは、華やかな香り文化が花開きました。現在、エッセンシャルオイルの蒸留法として広く使われている「水蒸気蒸留法」という方法も、ペルシャの医師イブン・シーナが10世紀ごろ発明しました。これによって創られたバラ水は、当時大変な人気で、医療目的はもちろん、食事の時に手を洗ったり、来客の際、お客様に香りをふりかけたりと、日常生活のいろいろな場面で使用されたそうです。

やがて、この「香りを捨てたヨーロッパ」と「香りの国アラブ」が再び出会うときがやってきます。それが有名な十字軍の進攻です。十字軍の兵士たちは、アラビアやペルシャから香料や香料の蒸留方法を持ち帰り、ヨーロッパに再びアラビア由来の香りが伝わったのです。
これ以降、ポルトガル人が喜望峰経由の航路を開いたことにより、ヨーロッパでは香料貿易を自分たちの手に独占します。そして、自分たちの香り文化というものを発展させていきます。中でも16〜17世紀のペストの流行は、香りの力を発見する、新たな契機となりました。人々はオレンジの実にクローブをさしたポマンダーをつくり、その香りによってペストの流行を防ごうとしました。香りの薬理効果が、人々に期待されたのです。実際にどの程度効果があったのかは、残念ながらわかりませんが、これにより多くの人々の命が救われたということも、あったのかもしれません。
19世紀に入ると、科学の進歩により、病気を治すための新薬が次々と開発されます。その一方で、香りによって病気を治そうとする考え方は、急速に忘れ去られてしまいました。香りはあくまでも「楽しむ」だけの存在になってしまったのです。
ところが20世紀に入り、病気に打ちかったかに見える私たちのもとに、新たな試練が降りかかってきました。それが「ストレス」という名の現代病です。病原菌を滅ぼした近代医学は、原因のはっきりした病気に対しては絶大な効果を発揮する一方、心理的に不安定だったり、気持ちが落ち着かないことで病気になってしまう人のことを治すことが難しいのです。このような現代病に抵抗するには、まず人間としての機能を高め、精神と肉体を健康に保つことが一番であるという考え方が生まれてきます。そして、その考え方にもっともあてはまる療法が、古代から人々に親しまれてきた、「香りの療法」アロマテラピーだったのです。

以上が、現代のアロマテラピーに繋がる香りの歴史です。こんなに長い歴史を経て、今みなさんのところにアロマテラピーという道が開かれていると思うと、ちょっと素敵だと思いませんか?
さて以下の表は、いままでの話を表にまとめたものです。学習の参考にしてください。

                       香りの世界から見た歴史

3000年代
エジプトのミイラ製造に、没薬、肉桂などの香料が使用される。
         エドゥフ神殿(エジプト)に残るヒエログリフに、香料の調合法が記されている。
1600頃
古代ギリシャのピロスの覚書に、ユーデデス、、ティエストなど調香師の名前が見られる。
1350頃
ツタンカーメン(BC1350〜1344)のミイラに乳香、甘松香、バルサム等の香料が用いられた。
1101
フェニキア人による香料などの地中海貿易が活発化し、チュニジアのウティカに交易港ができる。
814
フェニキアの植民都市カルタゴの建国、カルタゴ人は高水準の香料製造技術を持つ。
800頃
シバ(南アラビア)の女王、ソロモン王に多量の香料を献上する。
460頃 
医学、薬学の父と呼ばれるヒポクラテス(BC460〜375頃)が活躍。
300頃
ギリシアの薬学者テオフラストス(BC372〜288)が、著書「匂いの研究」で香油や香膏の作り方を紹介。
マケドニアのアレクサンダー大王(BC356〜323)が、香料の豊かなシバの征服をもくろむが失敗。
240
カルタゴ軍の総指揮官ハミルカは、香料工場をつくる。
159
前漢の武帝(BC159〜87)の命によりシルクロードが開かれ、東西の香料の交易が行われ始める。
BC
クレオパトラは、多量の香料の力を得て、BC47年にシーザーと、BC2年にはアントニウスと蜜月になる。

AD
イエス・キリストの誕生を祝い、東方(ペルシャ)の3博士が乳香、没薬、黄金を献上。
インドの医師スシュルタが、芳香性生薬に詳しい薬学書を編集。
77
ディオスコリデスが[薬物誌]を公刊、これを基にアラビア本草学が発展する。
100頃
ローマでギリシャ同様の香料熱が興り、香料使用料が最大になる。香水風呂も流行する。
610
マホメットの出現により、アラビア人の香料文化がイスラム教とともに広がる。
756
麝香、沈香、甘松香などの香料が聖武天皇の遺品として東大寺に献納される。
800
チュニジアにアグラブ朝が成立、アラブの香り文化が浸透する。
1000頃
ペルシャのアビケンナ(980〜1038)が、水蒸気蒸留法を発明。またアラビア医学の集大成とも言える[医学規範」を著す。この著書は17世紀頃までヨーロッパで医学生の教科書とされた。
  十字軍の侵攻(1096〜1270)に伴い、アラビアやペルシャの香料がヨーロッパに広まる。
1150頃
マラッカ海峡を基地にしたアラビア人による香料交易が隆盛をきわめる。
1350頃
スペインのアルノー・ド・ヴィルヌーヴらが、アラブの錬金術をヒントにアルコールを再発見する。
1370
エリザベート王妃の命によりアルコールをローズマリーの葉と一緒に蒸留して作った「ハンガリー水」発売。
1489
銀閣寺建立後、足利善政が志野宗信に「香道」の確立を指示する。
1508
フロレンスの修道院の中に香料製造工場ができる。その後ヨーロッパにポプリの流行をみる。
1511
ポルトガルにより喜望峰経由の航路が開かれ、香料・香辛料交易の実権がヨーロッパ人の手に移る。
1600頃
ローマの名門貴族フランギパ二が、麝香と霊猫香を配合した香粉を創案する。
1700頃
オレンジの花の香りをつけた手袋をネロラ国公妃アンヌ=マリー・ド・ラ・トレムイユが愛用。ネロリの語源。
1693
イタリア人ジャン=ポール・フェミニスにより、ドイツのケルンでオーデコロン(ケルンの水)が発明される。
1834
初の合成香料ニトロベンゾール出現。また1893年にはスミレ様の匂いイオノンの合成に成功。
1900年代
揮発性溶剤による精油の抽出法などが生まれ、香料界における化学技術が躍進する。

 ●もう一つの香りの歴史〜チュニジア香料商物語〜
 現在のチュニジアは、古代ではカルタゴと呼ばれ、フェニキア王国の中心都市として地中海文明の中で重要な役目をはたしました。雨が少なく、夏の乾燥が激しい気候は果樹栽培に適しており、カルタゴはオリーブの栽培および輸出で栄えたのです。果樹以外にも、カルタゴにはローズマリー、ジャスミン、フェンネルなど、今でいうハーブが多く生育し、香り文化を育むには最適な土壌でした。カルタゴは紀元前814年にフェニキア人の手によって成立しますが、紀元前2世紀には、当時勢力を拡大しつつあったローマ帝国にほろぼされてしまいます。(この時の戦争を「ポエニ戦争」といいます。歴史で習いませんでしたか?)
チュニジア第二の転換期は、6世紀にありました。この地には、古代からベルベル人たちが住んでいましたが、そこに、イスラム教の勢力拡大とともに、アラブ人が進攻してきたのです。アラブ人は、古代社会では名うての香り文化を持つ人々でした。視界のきかない砂漠の中では、一陣の風とともに乗ってくる街の匂いで人々の住む方向を知ることから、彼らの鼻の感覚は、とても優れていたといわれています。そんな彼らが、オレンジやハーブ、ジャスミンが咲き誇り、ベルベルの文化に育まれた豊かな香りに満ち溢れたこの地に魅せられ、住み着いたことで、チュニジアには素晴らしい香り文化が花開いたのです。
 このような背景のもと、ケミリー家は9世紀ごろ、チュニジアの港町タバルカで香料商を始めました。タバルカにあるクルミリー山地という山の名前がケミリーの語源だそうですが、この地は香料の原料となるさまざまな種類のハーブの栽培に非常に適していました。香料の輸出入に便利なタバルカ港とハーブ栽培に適したクルミリー山地の存在が、ケミリー家に繁栄をもたらしました。チュニジアでは、香料商および香料店のことを「アッタール」と呼びますが、ケミリー・アッタールは香りの素晴らしい香料商として、大変な人気を誇ったそうです。
ケミリー家の香料は、原料となる植物(ハーブ)を乾燥させ、粉末にした後、それを数種類混ぜ合わせて作りました。混ぜ合わせた粉末は、そのまま、または丸薬にして、売りに出されます。ケミリー家の香料を買った人は、自宅の香炉に入れ、下から火であぶって香りを楽しんだそうです。また、少し時代がさがって11世紀ごろになると、芳香蒸留水といって、原料となる植物から水蒸気で芳香成分を抽出させたものも原料として使用していたそうです。このような香りを調合する仕事は代々当主の仕事とされており、原料となる香料のブレンド比率は、秘伝として当主のみに伝えられたそうです。
チュニジアは、19世紀までオスマン朝の支配のもと、比較的安定した状態を維持していました。そんな中、ケミリー家の香りも1000年の長きにわたり、祈りを奉げるときの香りとして、(日本でいう「お線香」の感覚です)また、様々な儀式の時に用いる香りとして(チュニジアでは結婚式のときや、子供が生まれたときなど、生活の様々な場面で香りを使用する習慣があります)、さらにはちょっと具合が悪い時の薬としても、チュニジアの人々に愛され続けました。
 ところが20世紀にはいり、チュニジアに近代化の波が吹き荒れると、人々は次第に古くからの習慣を「時代遅れ」として捨て去っていきました。ケミリー家の香りも、ついには「近代的な薬」や「西洋の香水」にとってかわられてしまいます。このような状況の中、チュニジアの香料商は、どんどん薬局や香水店に様変わりをしていきました。ケミリー家もやはり、1956年に、香料商としての歴史に幕を閉じてしまいました。
しかし、どんなに近代化が進んだといえ、人々の生活に深く根ざした香り文化が、そう簡単に消えるはずもありません。チュニジアでは今でも、純粋な楽しみの一つとして、そして日常生活の習慣として芳香蒸留水を家庭の中で使用しています。彼らはそれらの方香水を、食べものの上にふりかけたり、手を洗ったりして香りを楽しむのです。
そしてケミリー家の香りもまた、香料商がなくなったからといって途切れることはありませんでした。お店で売り出されることはもうなくなってしまいましたが、その香りの伝統は現代の当主ケミリー・ラバー氏にしっかりとひきつがれました。さらに、ケミリー・ラバー氏に直接師事したケミリー・園子により、ケミリー家の香りは、今日「日本のアロマテラピー」として、新しく生まれ変わったのです。

さて、ここまで読んできていかがですか?ケミリー家の香りが、深い伝統と歴史に支えられたものであることを、ご理解いただけたのではないでしょうか?
次回は、そんなケミリー家の香りの楽しみ方をご紹介しますので、お楽しみに!

 
 
1.アロマテラピーの歴史、およびチュニジアの香料商・ケミリー家の香りの歴史を理解する。
2.オレンジ&プチグレンのエッセンシャルオイルを理解し、使いこなせるようにする。